こんにちは。わいざんです。僕らの今の価値観は、子供の頃から大人に言われてきたことをベースにできていると思います。
僕が40歳なので、もう30年以上も前の価値観で言われてきたことを、今も思い込まされているという可能性もあります。こんなにも時代は変わったというのに。
難しいのは、時代が変わっても普遍的なものもあるということです。ご飯を食べる時は「いただきます」食べた後は「ごちそうさま」、お米を粗末にしたら目がつぶれる。普遍的なものは今も大事にしたいところです。
疑うべきは、果たしてそれが今の時代にあってるのか?というところです。そう考えると、結構多くの価値観が変わってそうな気がしますよね。ちょっとでも違和感を感じたら疑ってみるのもいいのではないかな、と思います。
さて、そんなわけで僕が今回疑ってるのはこちらです。
『誰とでも仲良くしなさい!』
これ、多くの人が言われて育ってきたのではないでしょうか?今の子供たちにこれを言うのは果たしてどうなんでしょうか?
これを疑ってみようと思います。みなさんも考えながら読んでみてください。
なぜ誰とでも仲良くしないといけなかったのか?
まずは、なぜそんな言葉が生まれたのか?これは僕は日本人が集団で生きる性質があるからだと思います。
そしてその集団というのは、かつては物理的な距離で形成されてたからです。
学校、地域の集まり、商店街の組合…などなど。これらは全て物理的な距離を伴う集団、つまり地域コミュニティです。
世の中にはいろんな価値観があります。ただ、ひと昔前を思い出してください。そんなに多くの価値観がありましたか?
これ、多分ですけどあるにはあったんだと思います。ただ、それを出すのは難しかった。言うまでもなく、地域コミュニティにもいろんな人はいるはずです。ただ、そこが合わないな…と思っても別のところにいくハードルが高かったんですよね。
なので、どうしても生きていくには折り合いをつけないといけません。確率的にほぼ間違いなく合わない人はいます。みんなもそれをわかってる。「どこにいっても合わない人はひとりやふたりはいるよね〜」と。
だから折り合いをつけて生きていかないといけない。であれば、子供には「誰とでも仲良くしなさい!合わない人がいても我慢しなさい!」と言いたくなるのは当然なのではないでしょうか?
人々の価値観の形が多様化してきた
そこに、インターネットの登場で様子が変わってきます。物理的なコミュニティ以外に、距離を伴わないコミュニティができてしまったんですね。
そうなると、無理に合わない人といるより、価値観が合う人と過ごした方が楽しいし効率的、さらには意思共有もしやすいからパフォーマンスが上がるじゃん!と思う人が出てきます。
そんな人たちが周りの「おいおい、オレらは我慢して折り合いをつけるべきだろ」と言う世間の目を振り切って自由にやるもんだから…しかもSNSやブログで誰でもその価値観を発信できる。これにより、価値観は加速的に多様化していったのだと思います。いや、元々多様だったものが顕在化していったと言った方がいいかもしれません。
そうなってくると、元々合わなかった人もいるという世界がさらに合わない人が多くなってしまいます。ただ、僕が強く言いたいのはそれが悪いことではないということです。
恐ろしいのは、違う人を排除、攻撃しようとすること。別に合わない人と関わらなくても生きていけるようになったインターネットはある意味世界をよくしたのかもしれません。関わらなければいいのです。
今こそ価値観のアップデートが必要
ここで、僕は先ほどの「誰とでも仲良くしなければならない」という言葉に違和感を感じるのです。
明らかにひと昔前より多様化した価値観。その中で「誰とでも仲良くしなければならない」というのは、かなり子供達を抑圧すると思います。「そんなの無理だろ…」ということを押し付けられると、反発してそれがイジメに発展するのだと思います。それは、昔のそれよりも過剰な形で現れると思います。
なので、僕は今こそ「誰とでも我慢して仲良くしなさい」という言葉を「合わない人は必ずいる、ではその時どうするか?」に書き換えた方がいいと思うのです。
どうするか?の部分が大事です。こう書くと、まるで地域コミュニティは必要ないように感じるかもしれませんが、そんなことは全くありません。PTAだったりママ友のコミュニティだったり。物理的なコミュニティは依然としてあるし、それは地域として必要なものだと思います。なのでハイブリッドな言葉が必要だと思うのです。争いやイジメに発展しない何かが。
今回僕が伝えたいこと
今こそ僕らが子供に伝えないといけないのは「誰とでも仲良くしなさい」ではなく「合わない人も必ず世の中にはいるから、その時はそっと距離を置きなさい」だと思う。我慢した期間が長ければ長いほど、後に争いになる。全員と仲良くするのは無理というのは優しさだと思う。#yzan思考
— わいざん|横山 文洋 (@yzan_travel) June 30, 2019
というわけで今回の結論です。
「合わない人も必ず世の中にはいるから、その時はそっと距離を置きなさい」
これだと思います。無理強いすると我慢が重なり争いになる。仲良くしなければならない、という罪悪感をまずは外してあげたい。仲良くしたくない人がいるのは当然だよって。
でも、別に争ったり相手を自分の価値観に変えようとしなくていいんだよ、と。
合わない=そっと距離を置く。これを早めに伝えておくのがいいんじゃないかなって思ってます。
距離が置けない地域コミュニティはどうするのか?そこは多分変わらず我慢するしかないのかな、と思います。結局ハイブリッドな言葉はねーのかよ!ってツッコミが入りそうですが、それは本当にすいません(笑)
ただ、極論から言うと、どうしても我慢できない地域コミュニティに出くわしたら多分距離を置いた方がいいのではないかと思います。これは本当に。それでも生きていけるように昔よりはなってると思います。
ただ、このカードを切るのはだいぶ後でいいのではないかと。「仲良くしなければならない」が外れてると、多分なんだかんだで、のらりくらりと多くの人はやっていけるのではないかな、って思ってます。問題はひとつの価値観に抑圧することで、そうなると我慢したエネルギーが良くない方向にいくと思うのです。我慢させると爆発が怖いということですね。つまりハイブリッドなのは気持ちの持ちようってことですね(笑)
ご意見お聞かせください
実は今回のブログは僕の子育て論です。いや、全然そんな感じしなかったと思うかもしれませんが、子育て論なんです(笑)
「価値観を時代に合わせてアップデートすること」
これが僕の子育て論です。細かいことはわからないし、全然手伝ってないのだけど、もし子供に何か聞かれたり、頼られた時に古い価値観の押し付けだけにはならないようにしたいなって思ってます。そんな自分でいれば、無理に意識しなくても自然に背中を見せれるのではないかと。
価値観が昔より多様化した今の時代、果たして「誰とでも仲良くしなさい」は優しい言葉なのか?早めにそれは無理だと教えるのが優しさではないのか?
何が正解かはわかりません。もしよかったら今回の内容に関して、それは違うだろ!とか甘いよ!とかあればお聞かせください。
■日々価値観のアップデートに奮闘中!