原爆の日に考えること |個と公民について

8月6日は広島に原爆が投下された日です。僕は毎年、この日は灯篭流しを見に行くようにしてます。今年は用事があって、でかけてたので終わる直前になってしまいましたが、無事に見る事ができました。

広島でマーケティングの仕事をしておりますわいざん@yzan_travelと申します。

 

こちらは去年撮った写真。原爆ドームをバックに流れていく灯篭の灯りがとても綺麗でした。

こちらは去年撮った写真。原爆ドームをバックに流れていく灯篭の灯りがとても綺麗でした。

世の中の事は、結構考えている方だとは思うのですが、この日ばかりはさらに考えてしまいます。今日は、公に生きるという事について考えてみようと思います。

 

集団と個

あの戦争の後、日本は様々なところで共同体の解体が行われてきました。

家族、地域、会社など。

それと同時に叫ばれてきた個人主義。

 

ここで僕が強く言いたいのは、集団から離れて何の制限もなくなってしまった個は、真の個ではないということ。

真の個とは、集団の中でのバランスや、まわりとの協調を図りながらでないと得る事はできないのです。完全に集団から離れて自由に生きるという事は、もはや危険でしかなく、完全にバランスを失っているのです。

それを個性とは僕は呼ばない。

今日伝えたい事はこの点についてです。

 

公民という言葉の意味

では、集団の中でバランスをとりながら個を出していくとはどういうことでしょうか。そのヒントは公民という言葉にあると考えています。

我が国では、中学生から公民という言葉が出てきます。ところが、驚く事にこの公民という言葉をきちんと定義づけしている教科書はほとんどないそうです。

この公民という教育の目的をひとことでまとめると「地域社会や国家の担い手であることを自覚し、その義務を果たした上で権利を主張する」という意識を持った国民の育成のようです。わかりやすい記述があったので引用します。

 

公民とは、「義務と権利」、「責任と自由」のバランスがとれている人
戦後はあまりにも権利や自由に偏りすぎていた傾向があった。しかし責任がとれない自由はワガママであり、権利ばかり主張して義務を果たさない者は身勝手者である。この2つのバランスがとれている人が公民なのである。さらに言うならば、通常使われる「権利と義務」ではなく、「義務と権利」と標記すべきであると思われる。というのは、自分の義務を果たして初めて権利を主張できるのである。これは「働く」という義務を果たして初めて「給料をいただく」という権利が発生するのであって、その逆ではないからである。

 

この他にも、国家についての理解や、民主主義の欠点への理解など、様々な要素が必要です。まずは、ここの部分が重要という意味で、今回はここに焦点をあてて書いております。

義務を果たして初めて権利が主張できる。この逆はないということ。

社会に対して、義務を果たすことを放棄し、権利だけ主張する人が増えている事。そしてそれを個だと勘違いしていることの危うさがよくわかります。

このバランスをしっかりとるには、自分が共同体に属している事を、しっかりと認識することが重要だと思います。

 

まとめ

公の精神を持つことは、結果的に自分の個を輝かせる事につながります。集団の中に帰属し、その責任を果たしながら自分の権利を主張する事。

これほどまでに自分を高めれる意識はないと思います。このバランスを崩すと、非常に危険な状態になるという事をなんとなくでも覚えておいて欲しい。

そして、自分のやりたい事や、目標が見つからない人も、視点が自分だけになっている事が多いように思える。

もちろん、それはそれで大事な事。

視点を、広げてみる事が大事。

この自分が属する社会の中で、自分ができる事は何だろう?このように考える事が、自分のやりたい事や、目標を見つける為のヒントになるとこの頃思います。

 

広島の原爆投下から71年。

あの時代に生きた人は、みんなこの公の気持ちを持っていたのではないかと思います。

ちょっと、堅苦しいブログになりましたが、今日くらいはお許し下さい(笑)

 

平和への祈りを込めて。

また来年もこの灯篭流しを見に来れますように。

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