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【エクスマセミナー感想】誰もが文章表現を自由にできることの喜び

こんにちは。すっかりブロガーとして有名になったと思ってた僕ですが、昨日はエクスマ新春セミナーに参加して驚いたことがあります。

 

※エクスマ=エクスペリエンスマーケティング ⇒詳しくはこちらを

 

会場には500人もの人が集まっており、僕も多くの人と交流する事ができました。そこで知ったのは、僕は全然ブロガーとして認識されておらず、それどころか仕事も何をやっている人なのか実はよくわかってない… でも、なんだか楽しそうなんで、きっとおもしろい事をやっている人なんだろう!というイメージだったという事。

 

というわけで、今日限りでブロガーは引退します。

 

これからは、自分が何をやっている人なのか、もっと正確に伝えていこうと思います。

僕は、マーケティングパートナーとして、お客さんに寄り添った個に向き合うマーケティングのアドバイスをしています。専門は旅館ですが、最近は様々な業界から依頼をもらったらうけるようにしてます。覚えておいて下さいね!

そんなわけで今日のブログはマーケティングについてです。これからのマーケティングは思想の時代と言われています。自らの想いを伝えて、共感してもらう事が大事になってくる。その為に必要なのが文章力。文章力というと、ハードルが高く感じますが、全くそんな事はなく、自分の思う事を書けばいいのです。そんな話です。

 

近代文学の祖・正岡子規

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セミナー終盤で、エクスマ創始者である藤村先生から正岡子規についての話がありました。

セミナー全体を通して、見どころはたくさんあったのですが、僕がこのエピソードにものすごく感銘を受けました。

 

生まれながらに美しいものなど存在しない

美の標準は人間の感情による

同じ人でそのときどきで感情は異なり

美の標準も異なるのである

 

僕がエクスマを好きな理由のひとつに、藤村先生がこのような文学的な事からの気づきを大切にされていて、僕らに教えてくれるからだという事があります。いわゆる、ビジネス書のようにハウトゥ的な答えがあるわけではなく、文学から学んだ人の心を揺さぶるような気付きを伝えてくれる。こういうことが、これからのAI社会に向けて大事な事だと思うし、何よりも個人的にそういう心を揺さぶるものが好きなのです。合理性だけで生きていても全然おもしろくないし。

 

藤村先生は、正岡子規こそが、今の現代の情報発信時代…つまりブログやSNSの祖だと言われるのです。

 

目の前の事を自分の感じたように表現すること

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正岡子規が活躍した明治初期。当たり前と言えば当たり前なんですが、その頃の時代は今の常識とは大きく異なる事がたくさんあるのだろうなと想像がつきます。何しろ、今から約150年も前… 明治維新で開かれた明治初期ってどんな時代だったんだろう?

藤村先生のお話によると、当時の日本語の文章表現は非常に混乱の中にあったようです。教科書の文章は全て漢文で書かれ、難しく繊細な表現はできたものの、とても知識層以外の一般人には使えるものでない状況だったようです。日本語の表現が身近でないという状況… とても今からは想像できませんよね。

でも、今の当たり前は誰かが勇気と覚悟を持って切り開いた結果であること。これを忘れてはいけません。日本語の文章表現をカジュアルで、身近なものにしたのが、この正岡子規だというのです。

正岡子規は、小説を通じて、新しい文章表現を作ろうとしたそうです。ところが、小説では評価を得ることができず、小説の道を諦め、詩人を目指します。そして、目の前に写る情景をありのままに描写するという写生の概念を俳句にも持ち込み、写生句を生み出していきます。

この写生句誕生以前の俳句を、正岡子規は月並み俳句と呼び批判しました。月並み俳句とは、簡単にいうと洒落が効いてたり、落ちがあったり、ひねりがあったりと、要するに知識に訴えかけるような表現をしている句の事です。

僕の好きなフリッパーズ・ギターの詩は、もしかしたらこれにあたるのかもしれないですね。

正岡子規は、俳句にこのような理屈や思想的な事を持ち込むことを嫌い、もっと人それぞれが感じたありのままの美的感覚を重視しようよ!と言いたかったのだと思います。俳句のハードルを下げて、日本語の文章表現をもっと大衆的で、身近なものにしてくれようとしたんですね。

確かに、僕はフリッパーズ・ギターの詩は大好きですが、書けと言われても絶対にあんなハイセンスな言葉選びは、自分ではできないと思います。もしも、あれが文章表現のスタンダードだったらと思うと、こうやって気軽にブログを書いたり、Facebookに文章を投稿したりできなかったのが常識になってるんでしょうね。

正岡子規の生み出した写生句というのは、目の前に写るありのままをそのまま書く事。

これを聞いて感じることは、目の前に写ったものをありのままに書いたとしても、それは人それぞれで感じる部分は異なるということです。自分の心に感じたありのままを書けば書くほど、自分だけの文章表現になるということ。

写真だって、目の前にあるものをそのまんま撮ったとしても、アングルや構図の差で、絶対に同じものにはならない。文章だって、恐れずに感じたままに書けばいいんだよって正岡子規も藤村先生も、この写生句を通じて伝えてくれようとしている気がしました。

 

正岡子規が僕らに残してくれたもの

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正岡子規はこのようにして、日本語の文章表現を身近で、誰でもできるようにしてくれようとしたのでした。しかし、これからというときに病魔に侵され、余命宣告を受けてしまいます。それでも子規はこの写生句の考えを持って、友人たちと刊行した雑誌「ほととぎす」の中で、自らの写生句を次々と発表していき、それまでの俳句会の常識に守られている先人たちから痛烈な批判を受けながらも、自分の考えを広めていきます。

「誰でも自由に文章表現ができる」当時の人たちには、これがどんなに魅力的に感じたのか。自分の感じたものを世の中に発信していくことで、既存の常識は変わる。そして、世の中がそれを求めたとしても、誰かがやらないと常識なんてのは変わらないんだってことがよくわかります。

死に近づいていく自分を、子規は自ら写生したといいます。弱っていく自分さえも、書く事で向き合えたと思うと胸が熱くなり、どうしても僕はここで最近読んだ小説、「きみの膵臓を食べたい」を思い出さずにはいられません。奇しくも、あの小説は文章表現が稚拙だとか一部で言われてるようですが、そんなことはどうだっていいんです。余命宣告されたヒロインが、自らの残された日々を写生していく姿。こんな風にありのままを文章で表現されることが許されているのも、子規の思想から引き継がれているものかと考えると、心が震えてしまうのです。

小説については、内容には触れないので興味があったら読んで下さいね。

 

藤村先生は、このようなスライドの言葉でこの話を締めくくってくれました。

 

日本語の革新という壮大な夢

今の僕たちの言葉も

子規の夢の続きなのかもしれない

 

この世界は、言葉によってできているなって感じます。

誰かの言葉で救われ、誰かの言葉に勇気づけられ、誰かを励ます事で、自らも奮い立ち…そんなふうに言葉を通じて僕らは生きていってます。

そして、現代ではスマホさえあれば、だれでも自分の想いを言葉を使って世の中に伝えていく事ができる。なんておもしろい時代なんだろうって思う。そう考えると、正岡子規がブログやSNSの祖だっていうこともうなずける。

伝える言葉は、誰かがよいとした、知識のある形式ばったものでなくていい。

あくまで自分が感じたままをそのまま写し出せばいい。という事は、正岡子規が写生句を通じて遺してくれたものであり、藤村先生が僕らに、「思ったことをそのまんま書きゃいいんだよ。うまくやろうとしなくたっていいんだよ」って言ってくれてるように感じてなりません。

マーケティングにおいて、自分の想いを言葉で表現する事は重要です。そして、勇気がいります。不安に思ってる人の背中を押せれば嬉しいなって思って、このブログを書きました。

 

エクスマ新春セミナーしびれました!

僕もやっぱりブロガーとして、感じた言葉をこれからも綴っていこうと思います。

 

最後に、蛇足かもしれないですけどひとつだけ。

月並み俳句のように、ある知識層だけがわかればいいというような敷居を設けて、大衆を巻き込むことを放棄した文化は廃れていくのは当然なのかもしれませんね。そんな時、その業界に正岡子規のような常識をぶち破るヒーローが出てくることを願うばかりです。

最後まで読んでくれてありがとうございました!

 

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